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武内桂舟(1861年〜1943年)
赤坂の紀州藩邸に生まれた。幼少絵ばかり描いている少年だったため狩野派主流の家に養子に入ったが、絵の訓練を受ける年齢に達する前に長兄が没したので実家に戻った。その後はすべて独学、流派に縛られることなく成長した画家であった。
尾崎紅葉らが碩友社を作った直後、挿絵画家を探していたのに遭遇し、画家ながら碩友社の社員となり、多くの挿絵、口絵を描いた。巌谷小波と組んで御伽の出版でも活躍したが、紅葉の作品の意味するところを適切に汲み取り描く桂舟の挿絵は評判になり、紅葉には桂舟というコンビが出来上がった。桂舟の仕事の手堅さは作家たちから高い信頼を得ていた。又桂舟は誰にでも好かれる温厚な性質であったため、紅葉の弟子達からも多大な信頼を受け、作品の挿絵、口絵を多く描くだけでなく、碩友社内のもめごとをまとめる役割まで果たしていたようである。
明治28年「文芸倶楽部」が発刊された時、桂舟は博文館の絵画部に主任として勤めていて挿絵、口絵を描くことに専念した。昭和18年まで長命を保ったが、口絵時代が終った後は佐賀人形を作って余生をおくった。
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