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(1864年〜1905年)
信州松代藩士のもとに生まれた。18歳の時、狩野派の画家小林永濯に入門、藻斎永洗と号し、師永濯の死を機に官職を辞して画業に専念することになった。都新聞に入社して、挿絵画家として毎日連載小説の挿絵を描くようになったが、下町の粋筋が購買層の都新聞は、永洗が挿絵を描くと描かないでは新聞の売れ行きが大いに違ったというほどの人気を得た。永洗の妖艶な美人画は歌麿以来といわれたが、時代物にしろ現代ものにしろ、特異な人物を描くことにも定評があった。永洗塾が育てた口絵画家も多いが、口絵全盛期の明治38年、41歳の若さで結核の為世を去った。
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